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4月19日 張作戦主任参謀(元)のインポッシブルな大作戦(馮将軍奇譚外伝)

「まさにインポッシブルな大作戦!(by納沙幸子)」

 馮玉祥は、閻錫山や広西派[李宗仁・白崇禧・黄紹?]らの勢力と合作して、反・蒋介石の狼煙をあげた1930年の5月〜10月の「中原大戦」において、隴海線(甘粛省蘭州[隴は甘粛の古名]から、陝西省を横断して咸陽において北東に折れ、西安から潼関を経て河南に入り、洛陽、鄭州、開封、徐州を経て連雲港を擁する江蘇省の一海港海州[東海]に達する鉄道)で蒋軍主力部隊との決戦を求めてこれを殲滅し、一気に徐州[江蘇省]を抜ければ、津浦線(天津[河北省]と南京[国民政府所在地]対岸の浦口を結ぶ全長 1,010kmの鉄道)を山東から下ってきた晋軍[山西省の閻錫山軍]と隴海線沿い河南から東進してきた西北軍[馮玉祥軍]との握手が成り、徐州を攻め落した余勢を駆ってさらに長江まで兵を進めようものならば、平漢線(北平[北京。河北省]から漢口[湖北省]をむすぶ鉄道)戦区に主に充当されている士気の低い非蒋系“雑牌軍”に動揺が広がり、その戦線離脱、反蒋陣営への鞍替え等を招き、長江以北に蒋軍が反攻の橋頭堡を築くことは困難となる―と観ていた(資料[1]参照)。

 ところでこの戦策は、馮のオリジナルではなく、かつて馮の下で作戦主任参謀を務めた張亭が、閻錫山の信任厚い将領で、張とは保定軍校の同期生であった楊愛源[※1]、さらに閻の顧問であった徐寿椿らと合議して纏めた素案を馮に建議したものだという回想録が張橋・主編『蒋馮閻桂中原大血戦』(団結出版社/1995)に収められている。張亭によれば、当初、馮は平漢線では武漢湖北省]、隴海線では徐州に攻勢をかける予定であったが、張亭と楊愛源は、そうなると二つの戦線に主力が分割されるだけで、かたや蒋介石は隴海線を主攻として着々と直系部隊を集めている現況から、蒋軍が先に仕掛けてきたとしたら、平漢線に主力を割かれて兵力に劣る馮軍は全く被動の地位に立たされ、防戦のため奔命に疲れてみすみす戦機を逃してしまう、この際、平漢線上の蒋系“雑牌軍”を粉砕して武漢を取るために、宋哲元、孫連仲らが統率する機動予備部隊を送るのは策の得たるものではなく、平漢線方面は張維璽麾下の10万の兵によって守勢に徹し、隴海線にこの予備部隊を回せば、この戦線の馮・閻の部隊は蒋軍を凌駕する20万になり、この雄厚な戦力をも\xA4

辰鴇娵海棒茲鵑犬胴鏡Ľ砲任譴弌⊂佞痢噺廚了辧匹亮舂鷲徧發鰥嗅任靴峠祥◀鯣瓦唎海箸脇颪靴唎呂覆ぁ併駑繊\xCE2]参照)云々……と考え、張がこの策をもって馮玉祥に勧説したという。

 たしかに馮は、張亭が建議したとおり、5月初めの蒋軍主力の隴海線での攻勢に呼応して、馮軍を牽制するために5月16日、許昌河南省中部]に向けて発起された平漢線の蒋系・何成濬の第三軍団の進攻を激戦の後に退けた時にも、戦勝に乗じて退却する蒋軍を蹴散らしながら挺進して武漢を窺う素振りを見せず、河[河南省中部。許昌の南方]の線で留まり、平漢線の火消しが済むや、わずかな守備隊を残して残りの部隊を隴海戦線に振り向けたのは、馮が武漢への進攻をこの時点で既にあきらめ、また、平漢線の蒋系部隊の消滅すら、隴海線の勝利と徐州の陥落が達成されれば、これらの“雑牌軍”はたちまち中立を表明するか、馮軍に帰順するのであろうから、わざわざこれ以上干戈に訴えて息の根をとめるまでもない―としたのも、張の建議が与かっていたかもしれない。(ただ、張亭の隴海線での「先人制人」、先制・主動の利を占めるという主張は、馮の予備部隊が陝西・甘粛から「徒歩行軍」で隴海線前線に到着するまで時間が掛かる関係で、「攻勢防御」―まずは堅い防御に徹して、進攻軍が消耗・疲弊を俟ちつつ、有力な部隊を前線背後に集中させ、戦機\xA4

謀蠅犬徳慣概鵑欧討料軾森兇飽椶蝓⊃衞廚靴薪┐魄掬檗∧瑗擷気擦襦修鵬類瓩蕕譟⊂娵海\xAC5月11日に隴海線で総攻勢を仕掛けてきたために、「後手」に回ってはいたのだが。)

 だがしかし、これに慊らなかったのが、馮の幕僚であった熊斌であり、彼は「平漢線は蒋軍のアキレス腱だから、ここを攻めて河南の湖北の省境である武勝関を取り、進んで武漢を窺えば、戦局に大変化が起こる」と馮に建議したにも拘らず、馮がその策を採用せず、戦争終盤に平漢線から攻めてきた蒋軍に、馮軍の策源地である陝西にぬける連絡路(潼関)を遮断されて総崩れになったことを後々まで悔やんでいたが(「中央之部隊於平漢路一線頗具漏洞、馮先生未敢採納建議、遣軍沿平漢路南撃、否則可直下武勝関、進窺武漢、局面即大為不同。馮先生猶予不決、因此坐失時機」「熊斌陝西談馮玉祥部与中原大戦」)、かたや張亭と共に「隴海線決戦」論を主張していた閻錫山の幕僚・楊愛源は、「平漢線方面は張維璽指揮下10万の軍に任せておけば、この戦線での蒋軍の進攻を防ぐことができた」にも拘らず、隴海線に続いて平漢線で火の手が揚がり、5月25日には馮軍の基地である許昌への蒋の飛行隊による空爆によって隷下の部将の樊鐘秀[※2]が死亡したとの報に接するや、馮は攻防戦まさに酣の隴海線の指揮を抛り出して許昌で督戦に入り、さらには隴\xB3

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 「武漢進出」論の急先鋒の熊斌と「隴海線決戦」論のリーダーの楊愛源が、ともに馮の作戦指導を「ぬるい」と批判しているのは示唆的である。実は馮が将帥として「臨機応変の才」「果断さ」を欠いていることは、蒋軍にも知っているものがいた。それは馮の部下から蒋介石の幕僚に転身した曹浩森で、8月に馮軍が隴海線で乾坤一擲の総攻勢に出、その勢に押しまくられた恐慌状態となった蒋軍の将領たちの間で、前進基地の帰徳(河南省東部。現在の商丘市)を引き払って直ちに後退すべきだとの敗戦主義的な説がささやかれた折に、曹浩森は「馮軍の猛攻を受けている状況下での退却は不利である。数日のあいだこのまま何とか持ち堪えて、状況の変化を見て、退却に有利な時機を探そうではないか」という楊杰[※3]の論を継いで、「馮玉祥の作戦指導は石橋を叩いて渡る式で、勝算が立たないならば、決して危険を冒して深入りはしては来ない(「馮玉祥作戦向主穏扎穏打、非有十分把握、決不敢冒険深入」)」と説いて、退却を思いとどまらせたという挿話も、馮玉祥という武将は手堅いようでいて、肝心な所で詰めが甘いというのが定評であったことを推知させる\xA4

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 ところで、張亭の回想録には、友人の楊愛源をはばかってか、馮軍の他の参謀、例えば劉驥や、傅二虞(吉鴻昌の第11師団の参謀長)のそれとは異なり、閻錫山軍に対する批判(大戦の敗因は馮軍への補給を依託していた閻軍が適時充分な物資の供給を行わなかったためであり、これにより馮軍は戦機を逃し、また士気も低落させることになった[資料[3]参照]。特に反蒋陣営の頽勢が明らかとなった大戦終盤にはそれがひどくなり―劉驥曰く「百呼不得一応(梨の礫)」―閻軍には缶詰食品などがふんだんに供給されていたが、馮軍は菜っ葉の漬け物にさえありつけず、兵士は閻軍が残した空き缶を見つけては、閻錫山をののしったという云々)は影を潜めている。却って補給に関しては楊愛源が電話一本で閻錫山に掛け合ってくれたとか、馮の部将・石友三[※4]が、閻軍からの物資供給が適時に行われていないことに藉口にして(石曰く「食料があっても弾薬がなく、弾薬があっても食料がない」(吃的有、没打的、有打的、没吃的」)兵を動かそうとせず、「徐永昌(第三方面軍[閻軍]前敵総司令)、楊愛源(副総司令)がわが部隊に充分な補給を途切れなく\xB9

圓辰討唎譴襪里覆蕕仆估阿靴茲Α福峩ʢ硃⇒名⑱翩弣詬椽縞ⅸ猗濹ァヿ燦司箋襦~羹⇒彌估亜廖砲箸Δ修屬い燭箸ʔ∋嚇譴廼貔錣魘唎い蕕譴討い随綣盪海❶⌆异爾亮鶊泙\xCB50万元の現金と大量の小麦粉・弾薬を携えて馮玉祥の許に派し、馮の後方予備部隊の出動を懇請した時、馮が「我々の後方部隊はすべて新兵だ、俗に訓練されていない兵を戦わせるのは、これを「棄てる」という。わたしは、彼らに死ねというのに忍びない( ノД`)シクシク…(「他後方的部隊都是新兵、不教而戦、是謂棄之、他不能叫他們白白去送殺」)」と訴えて、閻軍救援を体よく断ったとか、馮軍のサボタージュのエピソードが随所に出てきて、この張亭という人物、仮にも馮軍の釜の飯を喰っていたクセに、やたら馮やその将領たちには手厳しい。張は馮軍(当時は「国民軍」と呼称)が、1926年5月から8月に奉天派の張作霖と直隷派の呉佩孚の連合軍に敗れた南口戦役の後に、山西省の閻錫山に身を寄せたことに後ろめたさを懐いており、5月初めに、かつての「国民軍」時に親交のあった馮治安[※5]に久し振りに会った折には、馮から帰参することを勧められ、「\xBE

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[※1]『楊愛源』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%84%9B%E6%BA%90

[※2]『樊鐘秀』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8A%E9%8D%BE%E7%A7%80

[※3]『楊杰』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%9D%B0

[※4]『石友三』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8F%8B%E4%B8%89

[※5]『馮治安』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E6%B2%BB%E5%AE%89

(資料[1])

「当馮玉祥布置這一次総攻的時候、曾経対整個戦局作了分析、認為主要戦場在隴海線、其次是津浦線、再其次是平漢線、徐州是隴海、津浦両線的枢紐。是一個極関重要的戦略要点、如将徐州攻下、則津、隴両路即可連成一気、西北軍与晋軍会師徐州、乗勝南下、影響所及、平漢線的“雑牌軍”必将発生重大変化、那時、最低限度、大江以北将無蒋軍立足之地。因此、馮対這一戦役下了最大的決心、除在平漢線控制一定兵力之外、把所有的兵力都使用在隴海線方面、以期一鼓攻下徐州、取得決定性的勝利。」(劉驥「蒋馮閻関係和中原大戦全景掃」張橋・主編『蒋馮閻桂中原大血戦』団結出版社/1995)

(資料[2])

「平漢線上的蒋軍、以徐源泉、王金?、楊虎城等雑牌隊伍為主、目前他們還与我們連繋了、不一定為蒋出死力、我們平漢線方面第一路張維璽部都是基幹精鋭、約四五万人、再配合樊鐘秀、石振清、任応岐、劉桂堂等部約五六万人、合計約10万人、与蒋軍在平漢線兵力相等。由張維璽統一指揮、扼守許昌附近要点、加強工事、穏扎穏打、就可以応付。因此、孫連仲可不必策応平漢線、用於隴海線方面、壮大力量較宜。至宋哲元部可速加入対敵左側攻撃、左側包撃各部、由宋哲元指揮、右側包撃部隊(石友三、劉春栄)和隴海線正面晋軍、由鹿鐘麟指揮、居中督戦、直接指揮孫連仲部策応之。我們左中(晋軍)右精兵約近20万人、比蒋軍勢優、一挙将其基幹精鋭撃砕、進占徐州、直搗南京、這是全勝的関鍵。至平漢、津浦方面的蒋軍、大都是雑牌隊伍、向与我軍有連繋、一見蒋失徐州、情勢不利、可能棄蒋帰我。故我軍隴海方面的勝利、可使平漢、津浦両線的軍事迎刃而解」(張亭「西北軍鏖戦紀実」張橋・主編『蒋馮閻桂中原大血戦』団結出版社/1995)

(資料[3])

「我全軍的粮弾補給本由閻錫山負責、但閻対西北軍的粮弾供応則多所限制、甚至予以難。……孫連仲部進占毫県後、本擬東進襲取津浦線的重鎮蚌埠、截断蒋軍後路。但以粮弾両欠、閻錫山不予撥補、致孫軍不敢軽易深入敵後、坐失致勝良機。不僅如此、閻錫山為保存個人実力、毎戦消極観望、不与友軍協力作戦、因而我軍常々坐失戦機、士気漸趨低落。」(傅二虞「吉鴻昌 奮力抗蒋、無奈叛馮」張橋・主編『蒋馮閻桂中原大血戦』団結出版社/1995)